未分類

祖母・祖父の余命宣告孫にできること

投稿日:

こんにちは。

3人の子育て中。育休中エンジニアのはるなです。

私は今現在38歳。
大好きなおばあちゃんが、お空に旅立ち、葬儀も終えて、いつもと変わらない日々を過ごしています。

私にとって、おばあちゃんは、いつも優しく見守ってくれていた存在です。
小5くらいのとき、母が働くようになり、日中は祖父が家にいてくれました。
特に夏休みはお腹を空かせていて、祖母が作ったお弁当を、祖父が持ってきてくれて一緒に食べたことが忘れられません。
甘じょっぱい醤油と砂糖が入っている卵焼きの味は、今でも大切に覚えています。

中2までは別々に暮らしていましたが、中3から同居。
進学への不安や、思春期で安定しない精神状態の中、一緒に住み始めたころは、祖母にどのように接したらよいのか分からず、母の真似をして敬語で話をしていました。
やっと普通に会話ができるようになったのは、高校2年生くらいからかもしれません。

そんな、おじいちゃんおばあちゃんも、穏やかにお空へ旅立ちました。

今回は、祖母や祖父が余命宣告を受けたときに、孫としてできたことを記事にしたいと思います。

スポンサーリンク

人はいつ死ぬか分からない

普段はあまり考えたくないのですが、人はいつ死ぬか分からないですよね。
初めて人の死に遭遇したのが、高校生の時。
同級生がバイク事故で。もう一人は病気で亡くなりました。

高校生でも死ぬんだ、ということをはっきりと感じた時です。
私の生活の中で、結婚式や出産などのおめでたい話題は多かったのですが、
葬儀に関しては、身内がみんな元気だったので、参列したこともなく、「他界する」ということに関しては遠い存在でした。

高校生のとき、小学生のころから知っている同級生が、突然亡くなるという衝撃的な出来事があり、人はいつ死ぬのか分からないんだ。と、深く考えました。

その時が、私が初めて葬儀に参列したときです。

後悔した思い出

時は流れて、社会人になり、音楽教室の講師として勤め始まったころ。
同じ楽器店のベテラン先生が病気でお休みすることになったので、受け持っていた生徒さんへの指導をピンチヒッターすることになりました。
まだ新人のころで、40代のベテラン先生のピンチヒッターなんて、恐れ多くてどうしようかとオロオロし、毎日必死で予習復習をしていました。

その先生は、子宮筋腫があり手術するため入院する。と聞かされており、ご本人からも
『突然のレッスン代理を引き受けてくださり、ありがとうございます。
まだ配属されたばかりで不安なことも沢山あるでしょうが、
手術も無事成功し、レッスンへ復帰できる日も近いと思います。
もう少し、〇〇先生の方で生徒さんたちをよろしくお願いします』
このような内容のメールを受けとっておりました。

先生は、直に復帰されるから、私はそれまで生徒たちが練習できるよう、今のレベルが下がらない様に見守ろう、という気持ちでいました。

受け持っていた生徒さんたちから、先生へのお手紙も預かっており、楽器店の営業の方が届けてくれる手筈になっていました。
私は全員分が集まってから先生へ届けようと思い、集まった分のお手紙は、私の手元で2週間ほど保管されていました。

ピンチヒッターを引き受け、1ヶ月が経った頃、突然の訃報が届きました。

ベテラン先生が亡くなった…と。

私の最大の後悔は、先生へ、生徒たちの手紙をお届けできなかったことです。
営業さんも忙しいだろうから、全員分が集まってからお渡しすれば一度で済む、と思っていました。

実際は、子宮筋腫ではなく、子宮がんで転移もしており、間に合わなかったのだそうです。
命まで脅かすような病気だったということにまで想像が出来ていませんでした。

その後、生徒たちは私が受け持ち、3年間教えました。
手紙をお渡しすることが間に合わなかったこと、今でも申し訳ないし、後悔の思いでいっぱいです。

でも、精いっぱい、レッスンをさせていただきました。

祖父の余命宣告時にできたこと

そんなこんなで、大切な人が病気だと知ったとき、もしかしたら、もう次の機会は無いかもしれない、後悔のないように行動しようと心がけてきました。

今から3年ほど前になりますが、祖父が骨折して寝たきりになった後も、長期休暇になると、子供たちを連れて実家に顔を出すようにしていました。
娘たちを見て、
『器量がいいなぁ、大切に育てろよ』
と言ってくれた祖父の言葉が、私にとっての遺言です。

最後は、風邪をこじらせ肺炎になり入院、そのまま帰らぬ人となりましたが、他界する3日ほど前に入院先の病院にかけつけることができました。
もう、意識は無く、呼吸をすることがやっとの祖父でした。
いい天気だよ、とカーテンを開けると、目をぎゅっとつぶってまぶしい素振りを見せた祖父。

白い髪がふさふさだった祖父は、その時は坊主頭になっていて、
子供のころの印象とだいぶ変わった、『おじいちゃん』が、『おじいいいちゃん』ぐらいになったな。
なんて思いながら、祖父の枕元に子供たちが作った折り紙のお花と、手紙を添えて病室を後にしました。

祖母の余命宣告時にできたこと

先日、祖母が亡くなりました。

祖父は少しボケが入っていて、話が分かるときと分からないときがあったのですが、
祖母は最後までしっかりしていました。

5月のGWに実家に顔を出したときは、まだ普通に会話はできて、子供たちとも話をし、一番下の寝返りが始まった赤ちゃんの様子を見てニコニコ笑っていました。
重たい重たい、いい子だねぇ、と、抱っこもしてくれました。
食事も一緒にお寿司を食べて。

それが、6月に入って、突然、祖母が食事をとれなくなり、余命1ヶ月もない、という連絡が入りました。

亡くなる4日程前に、小学生のお姉ちゃんたちが学校へ行っている間、一番下の赤ちゃんを連れて顔を見せに行きました。

もう、息をするのもやっと。
目を開けることもしんどい。
そんな祖母が、「ごめんな、話をするのもしんどいんだよ」と。
それでも、赤ちゃんの足を触り、「まるまる太ってかわいいな、いい子だ」
「アイスが食べたい…」と、4口ほど、小さなスプーンで、アイスを食べさせてあげることもできました。

その後、日曜日のお昼ごろに息を引き取りました。
週末まで待っていたら、おばあちゃんと会話はできなかったかもしれません。

とにかく、アイスを食べさせてあげられて、おいしいと言ってもらえて良かったと思います。

スポンサーリンク

まとめ

祖父や祖母の葬儀には、子、孫、ひ孫が集まり、暖かな雰囲気の元、送ることができました。

86歳の祖母の最後の紹介は、
『子供4人、孫9人、ひ孫11人。
お寿司、団子が大好き。
おしゃべり好きでいつもニコニコ笑顔でした。
おかあさん、ありがとうございました。』

人生は、いろいろな生き方があると思います。
仕事を一生懸命するのもよし。
自分探しを続けるのもよし。
子供を一生懸命育てるのもよし。

私はどんな人生を歩みたいのだろうか。

先に逝ってしまった先輩たちから学ぶことは多いです。

今日も後悔のないように。
自分の子供たちと必死に向き合う毎日です。

スポンサーリンク

スポンサーリンク



haru @リハビリ中サーバーサイドエンジニア

1984年2月生まれ。サーバーサイドエンジニア2年目👩‍💻小4・小2・1歳児のママ。夫婦ともに在宅勤務。育児と仕事の両立が永遠のテーマ。

-未分類

Copyright© ともばたドットコム , 2023 All Rights Reserved Powered by STINGER.